天平神護元年(765)閏10月8日、宇佐宮の八幡大神は勅使石川豊成に『我は既に共鑰山に示現しているので社殿を設け祀るように』との御神託を下し、当地に社殿(下宮)が設けられました。
社殿は宇佐宮の33年毎の式年造営、6年に一度の行幸会において造替を行ない維持してきましたが、天正9年(1581)、大友氏の兵火によって社殿を始め隣接していた神宮寺等悉く焼失してしまいました。
その後社殿は黒田長政公によって再建され、そののちも歴代藩主により手厚い保護を受け、今日に至っています。
本殿は横三間、奥行二間の流造。拝殿は横五間、奥行三間。また昭和40年以前は、屋根はワラ葺きに、白木の素朴な佇まいでしたが、昭和46年、宇佐神宮行幸会斎行に併せて、大改修をおこない、屋根をそれぞれトタンと瓦に、外装をベンガラと白に塗装し一新しました。また本殿と拝殿の間の申殿は明治12年(1879)、縣社に列格されたことにより、明治41年(1908)に造営。大祭には地方長官が供進使として参向されました。
当社の摂社として本殿西側に鎮座、創建は不詳。この三神は谷間、山上、峡谷に住む龍神とされ、水や雨を自在に操ることにより、祈雨、止雨、灌漑を司り、田畑に恵みの雨を降らせ、草木の生育とすべての食物を豊かに繁茂させる神といわれています。古くは神社横の深見川の氾濫を防ぐためにも祈られていました。 本社は京都府の貴船神社。祭典日は4月28日(4月第一日曜日)。
明治維新後、徴兵制がしかれ、この旧宇佐郡からも数多くの若者が軍人として出兵され、そのうち悲しくも戦場 で散って逝かれた方も少なくありません。その英霊の御 霊は東京の靖國神社、また県の護国神社にて祀られては いますが、この旧宇佐郡は県内でも山間部に位置する為、交通の便も悪く、お参りに出向くにも容易ではありませんでした。そのため明治44年(1911)に当時の宇佐神宮宮司到津公熈、妻垣神社社司糸永茂昌、妻垣神社総代衛藤忠蔵、在郷軍人古荘満太郎など多くの有識者が発起人となって、多くの浄財を集め、この忠魂碑(陸軍大将公爵桂太郎揮毫)が建設されました。
その後は、忠魂碑の前にて行政と神社の公式年中行事として宇佐郡大招魂祭を斎行し、旧宇佐郡出身の英霊をお慰めしてきました。終戦後、昭和28年に忠魂碑の周辺に旧安心院村出身戦没者(222人)の墓を建立。また旧社務所を遺族会に払い下げ、「平和遺族会館」と改名し、中には御霊を祀る
忠霊殿が創建され、毎年8月には神社を始め地元関係者を中心に、宇佐両院戦没者慰霊祭を斎行しています。
昭和17年、物資が不足していく中、国は金属回収令を発令。当社においても、真鍮の馬像(衛藤忠蔵奉納)、神仏習合の遺産である釣鐘(木下郁大分県知事祖先奉納)などを供出しました。
しかし近年、そのうちの供出した釣鐘が熊本県山鹿市長隆寺にて発見されました。釣鐘は送られた北九州の八幡製鉄所で溶かされる事なく、終戦後、山鹿出身の工員が檀家である長隆寺に寄贈したことによりその難を逃れました。早急な返還を希望しています。
神社には4基の鳥居があります。
なかでも第一鳥居より百段の石段を上がっていくとある第二鳥居は、慶安2年(1649)年上市村山上弥惣兵衛尉宗正及び同村氏子によって寄進されたものです。俗に「慶安鳥居」と呼ばれ、町内最古の鳥居として宇佐市指定文化財に登録されていましたが、平成3年(1992)9月19日未曾有の台風により崩壊。
現在その跡地には平成13年(2003)6月、大字上市地区氏子、株式会社衛藤組社長、衛藤通男氏により新たに再建されています。
中臣(藤原)氏の遠祖にあたる天種子命は、神武天皇より比咩大神(玉依姫命)を祀る足一騰宮を守護する役を命じられ、宇沙都比賣命を天皇の仲立ちによって妻に迎えました。「妻垣」という地名はこの故事になぞらえたものとされています。
以前、この御社は共鑰山の入山口(字権現)に鎮座しており、足一騰宮の比咩大神をお守りしてきましたが、昭和中期、安心院町の貯水池工事時に行方不明となり、早急な再建が望まれています。
神武天皇の御母玉依姫命を祀る足一騰宮は、共鑰山の八合目に社ではなく玉垣に囲まれた大石として鎮座します。
古代の日本では、巨岩や山などに神霊が宿ると考える磐座信仰が主流であり、当社の足一騰宮も、その磐座信仰のひとつと考えられています。またかつては三合目に拝殿があり、4月の元宮祭などの神事をおこなっていましたが、昭和初期に社殿の老朽化により解体されました。
この共鑰山には次のような昔話が語り継がれています。
共鑰山は椎山と呼ばれるほど椎の木が広がる山であり、村の子どもたちはこぞって山に入っては時間も忘れて、椎の実を拾うなどして遊んでいました。
すると日も暮れあたりが暗くなると不気味な気配が漂いだします。
一人の子供が「コロビが出たぞ!」と叫びだしました。子どもたちは一目散に山を下りていくのでした。
この昔話は、共鑰山を神体山として崇めていたことと、遅くまで山で遊ばないようにとの子どもへの戒めをこめてのものであろうと推測されます。
貞治5年(1366)、九州探題今川貞世(了俊)は、共鑰山を含める当社周辺での墓の建立・乱暴狼藉などを禁じた禁制を発布し、現在も住民はこの禁制を大事に守り続けています。
大正2年(1913)当時、山中部の十カ町村は交通の便が悪く、中等教育の機関として近隣では県立宇佐中学校と県立四日市高等女学校の2校しかない状態で、宇佐郡山中部には1校もありませんでした。
したがって中等教育を受ける希望者は宇佐市内に下宿する以外に方法はなく学費の関係もあり、一村から3、4名の生徒それも富裕層の家庭の子弟しか通学できなかった状態でした。
それを遺憾とし当時の山中部有志の熱望を察知して、神宮皇學館を卒業した林正木氏が私財を投じて、山中部の中心たる妻垣神社境内を選んで、校舎を新築し開校しました。
神武天皇御東征の聖跡足一騰宮に因んで、「騰宮学館」と名付け、小学校教員養成科と神職養成科を設置。また、『人みな神の御子』の教えに基づいて、門地や門閥、家柄などによる別け隔てなく学問を志す者は誰でも入学させていました。
当時特に神職養成科は伊勢の神宮皇學館と東京の國學院とここ妻垣の騰宮学館の3校しかなく、県下はもとより、北は北海道、南は九州沖縄まで全国各地、遠くは満州(韓国)から資格取得のため入学者は引きも切りませんでした。
しかし残念なことに終戦後の学制改革で学館としてはその門を閉じることとなりました。続いて「騰宮女子専門学校」として子息林直木氏により新たに運営しますが、昭和38年(1963)、時代の流れにより門を閉じることとなりました。騰宮学館と騰宮女子専門学校の前後を通じて2000人以上の学生生徒を世に送り出し、今や卒業生各位は社会のあらゆる方面に活躍して居られます。
このように大正初年から昭和三十年代にかけて大分県における中等教育の殿堂として教育界に於ける騰宮学館と騰宮女子専門学校での活動は顕著なるものがあります。
学館の跡地には記念すべきものはなかったため、卒業生有志で結成された騰宮会の発起によって記念碑が建てられました。
記念碑の材料となった御影石は、韓国漢陽大学宋晳來教授(昭和17年卒)の尽力により遠く韓国から寄贈され、地元ガーデン太陽の施工により建立され、昭和62年7月12日竣工式が行われました。記念碑の右手には昭和33年、没後15年を記念して建立された林正木館長の顕彰碑があります。