このページでは恒例祭の他にも、年間を通しての行事も掲載しております。
また、当神社では、年2回のペースで社報「ともかき」を発行しております。
(ともかきとは、妻垣山と呼ばれている神体山の正式名称、共鑰山よりとったものです。)
各号の内容を抜粋して併せてご紹介致します。
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新29号は以下よりご覧頂けます。
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新28号は以下よりご覧頂けます。
本年夏に開催される「夏越大祓祈願祭」と「風鈴まつり」のお知らせポスターが完成しました。
以下よりPDFでご覧頂けます。
夏越大祓祈願祭 ポスター (1.2MB)
風鈴まつり ポスター (661KB)
夏越大祓祈願祭 お知らせ (802KB)
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新27号は以下よりご覧頂けます。
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新26号は以下よりご覧頂けます。
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最新25号は以下よりご覧頂けます。
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新24号・23号は以下よりご覧頂けます。
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最新22号・21号は以下よりご覧頂けます。
当社で発行しております「ともかき」を、PDFで掲載いたしました。
最新20号~18号は以下よりご覧頂けます。
18号 平成30年 4月29日発行 (4.3MB)
19号 平成31年 1月1日発行 (4.5MB)
20号 令和元年 8月1日発行 (3.9MB)
先の大戦より今年で72年を迎えます。この間我が国は不戦を誓い、世界の平和のため、日々努力し続けています。去る5月24日、突如として県内の神社で不発弾があるという騒ぎが起こり、自衛隊による撤去がおこなわれました。それ以降、神社や民家等にあった砲弾が突如として危険物扱いされ、「爆発の恐れがあるため」と撤去する騒ぎになり、7月末現在、県内で発見・通報された砲弾は約220発を数えます。
発見された砲弾の多くは中が空洞であったり、記念碑として建てられたものばかりで
すが、中には信管、雷管がついた状態のものもあり、確かに危険なものも実際にはありました。この事態に県警、県教育委員会、県神社庁では危険の可能性もあるため、発見次第、通報し、撤去するよう促しています。
当社においても今回の一連の騒動をうけ、入念に調査致しました。その結果、本殿より2発、倉庫より2発、忠魂碑横に一発が見つかりました。中は空洞であり、爆発する危険性はありませんが、直ちに宇佐警察署に通報し、調査も含め6月11日に回収して戴きました。
しかしながら今回残念なことは一連の騒動によって、一部報道では過去に起きた不発弾爆発事故を持ち出し、県民の不安をあおり、神社は危険物を永年黙認し、管理が行き届いていない危険な場所であるかのような印象を与えていることです。
神社等に置かれていた砲弾が爆発した事案がなかったことが幸い良かったところです。
また発見された砲弾の多くは制作年代が不明であるものばかりで、どのような経緯で神社に置かれていたのかなど、田舎の小さな神社では記録も残っておらず、人々を不安にさせているのは事実です。新聞には「日清・日露戦争に従軍していた兵士が帰郷後、戦勝記念として奉納したのではないか」という研究者のコメントがありました。
確かにそのような形のものもあると思いますが、別なケースとしては地方自治体などが軍に対し砲弾などの廃兵器の下付を願い出て、払い下げられたものを、神社へ奉納したというケースも考えられます。(日清戦争では8700個、日露戦争では23170ヶ所の神社に砲弾が奉納された)
しかしながら、危険だから即撤去でよいのだろうか。回収しさえすればそれで良いという短絡的な話だろうか。軍からの下付による砲弾はともかく、当時、氏神神社で戦勝祈願を行ない、激戦の戦場へと向かわれ、無事故郷に帰還した兵士達が、帰還の証として奉納
されたと考える砲弾等に関しては、処理を施し安全性を確認したのち、再び神社に納めるべきだと考えます。でなければ、当時の人の思いは踏みにじられたことになりはしないでしょうか。
先の戦争によって我々は多くのモノを失いました。家族、家、土地など人によって様々 です。神社も例外ではありません。昭和17年、国は金属回収令を発布。全国よりあらゆる金属が供出されました。当社では昭和10年に大口田地区の衛藤忠蔵氏が奉納した馬像や、木下郁元大分県知事の先祖が奉納した釣鐘が供出され、飛行機や大砲の弾になるため、北九州の八幡製鉄所に運ばれました。
ところが戦後60年が経過した平成21年の夏、釣鐘が難を逃れ、熊本県山鹿市の長隆寺に現存していることが新聞で紹介されました。その年の秋祭には一時的ではありましたが里帰りが実現。ふるさと安心院に再び鐘の音が鳴り響いたことは多くの人の記憶に残る出来事でした。
以降、多くの方より「釣鐘はいつ帰ってくるのか」「死ぬまでにはもう一度、音を聞きたい」などのお言葉を頂戴しております。何分、先方も除夜の鐘などで現在使用しているため、十分相手方と協議し、解決したいと考えております。
【釣鐘に刻まれた銘文】
承応二年三月吉日
豊前国宇佐郡安心院
妻垣八幡宮
御寶前奉掛蒲牢一枚
施主 木裳村住
下村勝左衛門尉藤原吉次
同婦人
治工 駄原住
安部孫左衛門藤原貞久
今年も高校球児たちの熱い夏がやってきました。地元安心院高校には創設50年以上になる野球部がありますが、数年前より、過疎化による生徒数の減少により、大会や試合に出るのもギリギリの状況でした。
そのような中、平成23年に同校卒業生でもある池部鉄雄氏(元日鉱佐賀関野球部監督)を監督に迎え入れて以降、少しずつ部員の実力もつき、部員数も増え、今年は9人の一年生が入部しています。
ともがき会ではシャクナゲの植栽活動を開始してより、今年で7年目になります。シャクナゲの購入資金は、年末に氏子崇敬者に皆様に購入いただく一体300円の祈願絵馬の売上金です。
近年では地元造園業ガーデン太陽(衛藤博幸)様や崇敬者からの寄贈分も含め、境内に植えたシャクナゲの数は既に300本にものぼります。
当社氏子地区(上市、古市、妻垣、寺山、大口田)を取りまとめる溝部定見神社総代長が、本年3月31日を以って退任致しました。
溝部氏は平成八年に前任の衛藤時夫氏の志を継ぎ、約20年間、神社総代長としてお宮の護持運営に務めて下さいました。在任期間中は社務所の改築、戦没者慰霊祭の復活、千二百五十年祭の斎行など多岐にわたります。
後任には妻垣地区の矢野省三氏が3月の臨時総代会にて満場一致で選出。溝部氏には引き続き「顧問」として、神社に協力戴くことも、総代会にて承認されましたので併せてご報告致します。
かつて八幡社の総本社「宇佐神宮」では、神様の御神体である「薦枕」を新調し、宇佐市内の八ケ社(田笛社、鷹居社、郡瀬社、泉社、乙咩社、大根川社、妻垣社、小山田社)を巡り、神様の御神威のご発揚を願う「行幸会」という神事がありました。この神事は莫大な費用と人手、年月を要する為、元和2年(1616)、中津藩主細川忠興公が一度再興して以降、現在に至るまで中絶しています。
行幸会は卯の年もしくは酉の年に行われていました。何故、6年毎の卯酉の年に斎行されたかと申しますと、干支の卯は物事が始まる時期、また酉は物事が成熟し、実る時期とされ、神社によっては祭事を卯もしくは酉の日に行うお宮もあるほどです。
その中で当社は7番目の巡幸地であり、神輿は2泊3日、この為だけに建てられた仮宮に滞在。日毎に下宮(現本殿)、上宮(足一騰宮)にて神事が執り行われました。また夜には仮宮にて神楽等も奉納されています。元和の行幸会は室町期より約190年ぶりに再興されたこともあり、その夜、本殿より三本の白い湯気が立ちあがったと細川家の日記「細川家記」に記されています。このような事は八ケ社の中でも当社のみの出来事であり、神様のご神威の現れだと語られております。
そういった中、近年では行幸会関連神社を巡るウォークやスタンプラリーが行われています。本来斎行されるこの酉年に関連神社を巡り、各神社の神様より御力を戴くことも良い機会となるやしれません。昨年は60年に一度の丙申年でした。丙申年は世の中が変革する年、また乱れる年と言われ、熊本地震、阿蘇山の噴火、北海道の豪雨等様々な災いが続きました。本年が干支のように皆様にとって物事が成熟し実りのある素晴しい年と成りますよう、衷心よりお祈り申し上げます。
永年の懸案事項でありました「絵馬掛け」を制作するにあたり、昨年の夏より寄付の募集をお願いしたところ、下記の方からのご奉賛を戴き、見事完成致しました。この場を借りて篤く御礼申し上げます。早速、今年の正月より活躍しております。またこの絵馬掛けの半分は掲示板となっており、祭事案内の掲示等に利用していきます。
奉賛者一覧 (敬称略) -------------------------------------------------------------------
綾戸 義弘(宇佐市) 矢野 靖子(宇佐市) 前久保邦明(大阪市) 中西 久江(大分市)
安部フジ子(大分市) 柴田 文子(大分市) 菊池 靖子(大分市) 大塚 俊子(大分市)
笠置 敦子(大分市) 後藤喜代美(大分市) 妻垣神社ともがき会