松本清張は作家としてデビューする前の無名な時代、故郷北九州において朝日新聞西部支社の臨時嘱託(のちに社員となる)として勤め生計をたてていました。
古代史が大好きであった清張は、休暇を利用しては愛用の自転車にまたがり、遺跡・史跡が残る地域を廻るのを趣味としていました。
そんな中、朝日新聞東京本社記者石川銀次郎氏より我が国最古の歴史書「古事記」について教授を受け、未だ特定されていない「足一騰宮(一柱騰宮)」を調査すべく、昭和17年(1942)、安心院を訪れ、伝承が残る当社に立ち寄ります。
阿曇一族の形跡が色濃く残る龍王山や妻垣山(共鑰山)。そして古代ロマンに満ちた妻垣神社や騰宮学館が深く印象に残り、のちの小説『陸行水行』を執筆しています。
清張は妻垣神社を訪れ、神社を案内してもらう際に近くに住む藤井すえのさんと出会います。
当時、藤井家では戦争で長男を亡くされた直後で、すえのさんと両親の3人暮らしでした。そこに同年代であった清張を息子と照らしあわせた藤井夫妻は、家の縁側で神社の歴史など様々な話をし、当時食料が少なくなってきた時代であったにもかかわらず、清張に里芋やお米、漬物などをリュックいっぱいにお土産として持たせました。
その後も清張は安心院を訪れるなど、藤井家と交流が残っていた様子が手紙から見て取れます。
昭和19年2月
昭和19年3月
昭和19年4月
しかし、その年の6月24日、清張は教育召集のため久留米第56師団歩兵第148連隊に入り、衛生兵として朝鮮に渡ります。その際、すえの氏に次のようなお別れの手紙を送っています。
昭和19年6月24日
終戦後、無事に帰国した清張は朝日新聞社に復帰。のちに作家としてデビューし、数々の作品を世に出していきます。
その一つが、昭和38年に出版した短編小説『陸行水行』です。この小説は、清張が一連の古代史論(主に邪馬台国論争)に力を注ぐきっかけになったといわれています。
藤井家では清張の活躍を自分たちの事のように喜び、大事に保管していた清張の手紙を表装して、上京する知人に託し、祝意を伝えます。自身の手紙を見た清張は、安心院の藤井夫妻、すえのさんとの思い出をなつかしみ、手紙に次のような歌を加えます。
その後、清張は昭和46年に長編時代小説『西海道談綺』を執筆し、主人公が現在の大分県日田から宇佐の四日市まで向かう道の途中に、安心院や当社を再び登場させます。
それ以降も清張は安心院を度々訪れました。神社拝殿に掲げている写真は、昭和57年、安心院町に清張の文学碑竣工を記念して訪れた際に、当時の町長矢野武氏の案内によって当社を参拝された時の写真です。
また清張は安心院のすっぽん料理と安心院ワインが大好物であり、地元のやまさ旅館に滞在し、安心院に訪れた際はよく召し上がられたとのことです。