妻垣神社 行事・お知らせ

このページでは恒例祭の他にも、年間を通しての行事も掲載しております。
また、当神社では、年2回のペースで社報「ともかき」を発行しております。
(ともかきとは、妻垣山と呼ばれている神体山の正式名称、共鑰山よりとったものです。)
各号の内容を抜粋して併せてご紹介致します。

妻垣神社 熊本大分地震復興祈願祭斎行

妻垣神社 熊本大分地震復興祈願祭斎行

秋季大祭に併せて、昨年4月14日より発生しております「平成二十八年熊本地震」の早期復興、終息を願って、復興祈願祭を斎行致しました。
祭典にはテレビ・新聞等でも報道されております熊本県の阿蘇神社より、阿蘇惟邑禰宜様にお越し頂き、共に祭典をご奉仕頂きました。阿蘇神社は16日未明の本震によって、日本三大楼門に数えられる楼門(国指定重要文化財)の倒壊を始め、拝殿、本殿が悉く破損致しました。また同社に留まらず、熊本県、大分県を中心に民家、公共施設、寺社仏閣、田畑等、その被害は計りしれません。
私共、妻垣神社はおかげさまでこの地震による被害はありませんでしたが、いつ何時同じ目にあうかも知れません。神社は「祈り」の場です。我々に出来る事と言えば、被災者に寄り添い、早期の復興を祈ることではないかと思い、総代と協議し執り行なった次第です。

妻垣神社 熊本大分地震復興祈願祭斎行

いざ祭典が始まり宮司が祝詞を奏上すると、境内に集まった100人を超す参拝者は物音一つせず、共に祈りを捧げて下さいました。
また復興祈願祭に併せて、地元安心院高校の協力を得て、境内にて募金箱と震災前後の阿蘇神社の写真パネルを持って募金活動も行ないました。参拝戴いた多くの方より、心のこもった善意を頂き、開始1時間程で32,320円もの募金が集まり、高校生より阿蘇禰宜様へ募金箱が渡されました。
本来ですとこの募金は熊本・大分県の被災地全体に対してお渡しするのが筋ですが、私共のような小さな神社ではそもそも無理な話であります。今回、縁あって阿蘇禰宜様にお越し頂いたことにより、このような形を執らせて戴きました。

妻垣神社 熊本大分地震復興祈願祭斎行

祭典後、阿蘇禰宜様より「11月より阿蘇神社では本格的な修繕活動が始まります。何年かかるかはわかりませんが、阿蘇神社が震災前の元の姿に戻った際には、是非ともお参り下さい。お待ちしております。」と氏子参拝者にあいさつ。当社では引き続き復興支援活動を続けていきたいと考えております。

妻垣神社 秋季大祭

妻垣神社 秋季大祭

昨年の秋季大祭は天候に恵まれませんでした。大祭初日、昨晩より降り続く雨は止むことが無く、神輿が出る神幸祭の斎行が難しい状況となりました。急遽、総代会を開き、雨による神輿の損傷、また担ぎ手の身の危険を考慮した結果、神幸祭を中止する事と致しました。
神社の記録によると、この百年間で神幸祭の中止は三度目となります。まずは前年、担ぎ手のあまりのマナーの悪さに当時の林直木宮司が憤慨し、翌年、神輿を出さなかった昭和19年。2回目は戦後の動乱による昭和20年。そして今回です。以前であれば、担ぎ手も血気盛んに神輿の損傷等無視して祭典を挙行してきましたが、昨今は昔とは事情も大きく異なる為、止む終えず中止とした次第です。 
尚、例大祭については定刻通りに斎行。総代役員一同、心を一つに祈念したおかげか、翌日は予報とは大きく違い、朝方には雨も止み、お神楽をする時間には晴れ間も見え始め、無事もちまきができるまで回復しました。

そして、これも恒例行事となりましたが安心院高校茶道部による遺族会館でのお茶会も予定通り開催。昨年の120人には及びませんでしたが、90人近くのお客様が、高校生の点てたお茶を頂戴しました。午後3時からは本殿にて献茶式を行ない、高校生により御神前にお茶がお供えされました。また、昨年は熊本地震で被災した阿蘇神社に対しても、御本殿を通してお供え致しました。
神輿が出ることが叶わなかった昨年の秋季大祭でしたが、熊本大分地震復興祈願祭を斎行する等、例年とは違った大祭となり、ある意味、意義のあるお祭りになったかと思われます。今年は、台風はもちろんのこと、雨は降らないで頂きたいものです。

妻垣神社 宇佐青年会議所 男女50人恋の夏物語

妻垣神社 宇佐青年会議所 男女50人恋の夏物語

昨年の8月末、宇佐青年会議所主催の婚活事業「男女50人恋の夏物語」が、約60名の参加者によって開催されました。今回は宇佐市の山間部地域である安心院・院内のおすすめ縁結びスポットを巡り、出会いを深めるという企画です。

まず参加者は当社にて恋愛成就の祈願を受けました。当社は縁結びの御利益があるとされています。それは神社の名前である「妻垣」に由来します。約2670年前、神武天皇様がご東征の砌に当地に立ち寄られ、比咩大神を斎き祀り、その際、家来の天之種子命に地元の娘宇沙都比売を妻に娶らせました。このことは須佐之男命が八股の大蛇を退治して、奇稲田姫を妻に娶った故事と類似しており、その時、須佐之男命が詠まれた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣作る その八重垣を」より、「妻」「垣」の字を組み合わせて「妻垣」としたとされ、縁結びの神社として今日まで信仰されています。後日、会議所の担当者の方より伺いましたが、参加者より7組のカップルが誕生したとのことです。おめでとうございます。

また祈願祭の後には阿蘇神社復興支援活動として、阿蘇の「蛍丸サイダー」を参加者にお配り致しました。サイダーの売上げの一部は修繕費用に充てられるとのこと。参加者より「このような形で復興活動に参加できてうれしく思います。阿蘇神社とも御縁が出来た気がします。」とのコメントを戴きました。

妻垣神社 神武天皇崩御二千六百年 ~松本清張と神武東征~

妻垣神社 神武天皇崩御二千六百年 ~松本清張と神武東征~

昨年、皆様のご協力により御社殿創建千二百五十年祭を盛大のうちに執り了め、
妻垣神社の大神様のご神威は益々広がるばかりです。

さて本年は第一代神武天皇様が崩御されてより2600年を迎えます。天皇様と当社は大変縁が深く、神武東征の頃までさかのぼります。当社由緒本「都麻垣宮旧事記」によると、国を平らげる為、日向より大和へと発した天皇様は、宇佐の地に立ち寄られます。そこでウサツヒコ・ウサツヒメに迎え入れられ、しばらくこの地に留まることになります。

その際、安心院の美しい景色にいたく感動された天皇様は御自ら祭祀を行い、御母玉依姫命(比咩大神)様の御霊を共鑰山の大石にお祀りします。これこそが当社元宮となる「足一騰宮」のことであり、妻垣神社の始まりとなります。つまり、神武天皇様がこの地に立ち寄られなければ、当社は存在すらしなかったという訳です。

また文豪で知られる松本清張は、まだ無名の昭和17年に初めて当社を訪れます。
何故はるばる北九州小倉より、この安心院に訪れたかと申しますと、若かりし清張は古代史に興味を持ち、神武天皇を研究する朝日新聞東京本社の記者石川銀次郎氏と出会い、神武東征に興味を持ちます。

そして、未だ断定されていない足一騰宮を探す為、宇佐へ向かうのですが、そこには何の痕跡もありませんでした。そこで地図を広げ、宇佐の隣の安心院盆地を探し出します。盆地は古くより人が住むことより、そこには神武天皇に所縁のある古い神社があるに違いないと・・・。

汽車とバスに乗り盆地に入った清張は神武天皇同様、その風景に感動します。そして、地元の人より当社のことを教えてもらい、妻垣神社を訪れたのでした。当社を探し当てた時、清張は大変嬉しかったに違いなく、昭和36年には当社を舞台にした短編小説「陸行水行」を発表しています。

清張も魅了された神武天皇ゆかりの元宮は近年、パワースポットとして注目され、多くの方が傾斜のある参道を登り、お参りされています。この機会に是非ご参拝戴ければと思います。

妻垣神社 頓宮のシャッターに神輿の御紋を!

頓宮のシャッターに神輿の御紋を!

毎年秋の神幸祭、また今次の千二百五十年祭において、大神様のお鎮まりになります仮宮として使用する頓宮(とんぐう 通称…おかりや)ですが、普段中は神輿を納めているだけで、参拝者から「立派な倉庫ですね」「どういった建物ですか?」とよく尋ねられます。
江戸期に造営された旧頓宮の老朽化に伴い、平成7年(1995)に全面改築をしましたのは、氏子の皆様にはまだ記憶に新しいところです。しかしながら、その際に正面を従来の蔀戸(しとみど)から開閉のしやすいシャッターに変更したことにより、倉庫のように見える始末。そこで6月の総代会で協議した結果、それぞれの神輿の屋根にあしらわれている大神様の御紋を、シャッターに印刷し、見栄え良く致しました。御紋は次の通りです。

頓宮のシャッターに神輿の御紋を!

・左/三之殿 神功皇后 『五三桐』 ・中央/一之殿 比咩大神 『橘』 ・右/二之殿 八幡大神 『左三つ巴尾長』

妻垣神社 「海道東征」看板の設置

「海道東征」看板の設置

当社元宮である足一騰宮を歌った曲「海道東征」が発見されたことは前々号でご紹介致しましたが、
昨年、産経新聞にて1年を通して特集が組まれたり、11月には東京藝術大学や産経新聞社主催の演奏会が開かれるほど、全国的に注目されました。
(今年の春・夏には、これらコンサートCDが発売される予定。)

当社に於いても共鑰山8合目にある元宮までお参りされる人が、昨年より増え続けております。
今年は第一代神武天皇様が崩御されてより2600年という節目の年に当り、この素晴らしい曲を多くの人々に知っていただくためにも、4月の元宮祭(足一騰宮祭)にあわせて、境内に説明看板を設置致しました。


妻垣神社 千二百五十年祭斎行

妻垣神社 千二百五十年祭斎行

当社最大の重儀、御社殿創建千二百五十年式年大祭が盛大な中に斎行されました。
当社は天平神護元年(765)に社殿を創建して以降、1250年という永い時を経て、この節目の年を迎えました。この永い年月の中、我々の先祖たちは時代毎に尽力され神社を護ってこられた事により、今日があります。

中でも社殿は創建より幾度となく建て替えや修繕を繰り返してきました。
時代によっては財政的に厳しい時もありましたが、祖先は自分たちの生活よりも先ずは氏神様の事を優先してきました。今を生きる私たちが祖先の思いを受け継ぎ、今次式年祭を斎行できましたことは、氏子の皆様を始め妻垣神社を慕って下さる多くの方々からの思い以外他ありません。この思いを、これからの時代を担う次の世代へ引き継がねばなりません。しかしながら、この先、神社を取り巻く環境は一段と厳しくなっていきます。先日、25年後には全国八万社余りある神社の約4割が消滅しまうとの報道がありました。人口の減少により、神社の消滅、神社同士の合併が加速していくことが大きな原因です。当社も氏子の戸数は決して多い方ではありません。数年後には100戸をきる可能性は大いにあります。しかしながら、今後、私たちの努力次第で、少しでも遅らせる事は可能なはずです。

今回、社殿の改修にあたっては、緊急を要する部分のみの工事でスタートしましたが、皆様の思いにより、多額の費用を要する瓦屋根の葺き替えも見事実現しました。これは皆様の大神様への思いが形として現れたものではないでしょうか。私たちの神社への思いを次の世代に受け継いでもらうには、今を生きる我々が神社の事を少しでも教えていく必要があります。50年後の千三百年祭が今次同様に賑々しく斎行されることを切に願っております。
本年、当社は1251年目をスタートしました。式年祭を斎了し、大神様のご神威が益々高まる当社をこれからもどうぞ宜しくお願い申し上げます。


妻垣神社 境内間伐作業

妻垣神社 境内間伐作業

境内環境整備活動として本年は2か所にわけて大がかりな作業を行ないました。
まず1カ所目は西門から続く石畳周辺です。このあたりは常時大きな樫の木の影となり、そのため、コケに覆われた石畳は滑りやすく、危険を伴うため、大規模な枝打ちをおこないました。
2カ所目は第一鳥居から続く百段の周辺です。このあたりは竹が多く自生しており、同様に日差しが入らず昼間でも薄暗い場所のため、全ての竹を伐採。併せて竹枯らしも散布しました。

また今回作業を進めていく中で一本の木を発見しました。「榧(カヤ)」の木です。榧は堅く丈夫な材木として知られ、古くは仏像、また碁盤などの材料として使われてきました。榧の木があるこの場所は、かつて当社の神宮寺の六坊の一つがあった所であり、将来仏像を掘る材料として植えたものかも知れません。
間伐して下さった職人さんのお話では、木の樹齢は500年以上は経過しているそうです。またこの近辺ではこれほどの大きさの榧はなかなかないとも聞きます。今後、正式な調査を行ない、後世へと守り伝えていきたいと考えております。


戦後70年 宇佐両院戦没者慰霊祭

妻垣神社 戦後70年 宇佐両院戦没者慰霊祭。

去る8月16日、当社忠魂碑にて宇佐両院戦没者慰霊祭が斎行されました。本年も祭典に先立ち、7月14日には地元安心院中学校二年生による供養塔の清掃奉仕がありました。生徒たちは汗をぬぐいながら黙々と一所懸命に碑についたコケや汚れを取り除いて下さいました。作業終了間近には夕立にあってしまい、全身びしょ濡れとなりましたが、222基の供養塔は、光輝いておりました。御英霊もさぞかしお喜びに違いありません。

また慰霊祭当日には、3名の生徒が祭典に参列。御霊前に対し、花束をお供え下さいました。 戦後70年を迎え、少しずつ戦争を経験された方は少なくなり、慰霊祭の参拝者も減ってきております。この清掃奉仕を通じて、戦争を知らない若い世代に平和の尊さを引き継いで頂ければと思います。

妻垣神社 戦後70年 忠魂碑・供養塔の説明看板の設置

忠魂碑・供養塔の説明看板の設置

一昨年、厚生労働省による国内の戦没慰霊碑13,174基を超える民間慰霊碑の実質調査が行なわれ、昨年夏、調査内容が公表されました。
そのうち少なくとも734基がすでに倒壊するなど管理不良の状態となっており、また管理状況の不明が5386基。  管理状況が良好なのは7054基だそうです。
当社境内には院内・安心院の戦没者を祀る忠魂碑と、安心院校区の戦没者の供養塔があり、これらもその対象になります。建立当時から昭和末までは傘鉾や盆踊りなど賑やかに慰霊祭をおこなってきましたが、近年、遺族の高齢化などにより、少しずつ衰退。遂には慰霊祭も中断する事態にも陥りました。

戦後70年という節目の年となった昨年、このままでは、この国、ふるさとのためにかけがえのない命を捧げられた亡き御英霊に対し申し訳ない気持ちと、数年後には碑を建立した経緯を知る人もいなくなるのではないかと危惧した遺族会と地元有志たちは、昨年春に「宇佐両院の戦争遺産を守る会」を発足。宇佐市周辺地域元気づくり応援事業の補助金を活用して、この度、2つの説明看板を設置しました。

まず1つ目は、忠魂碑について。2つ目は旧安心院町共同墓地(供養塔)についてです。慰霊祭当日には、是永宇佐市長も公務の合間をぬってかけつけていただき、完成報告会をおこないました。この模様は8月18日の大分合同新聞朝刊でも取り上げられました。

忠魂碑・供養塔の説明看板の設置
元宮 足一騰宮を歌った曲発見!

妻垣神社 元宮 足一騰宮を歌った曲発見!

当社元宮である足一騰宮に関して新たな発見がありましたのでご紹介いたします。それは足一騰宮を歌った曲が見つかったことです。

曲のタイトルは『海道東征』(かいどうとうせい)。昭和15年(1940)、皇紀二千六百年を奉祝して作られた国内初の交声曲(カンタータ)であり、日本神話の神武東征を中心に全部で八章に構成された曲で、日本の明るい未来を言祝ぐ平明かつ雄大な叙事詩として、戦前は多くの会場で演奏されていたそうです。
その内の第五章『速吸と菟狭(はやすいとうさ)』の2番に、元宮の事が歌われています。作詞は福岡県柳川出身の詩人、北原白秋。作曲は「海ゆかば」でも知られる信時潔(のぶとききよし)と豪華な面々。
今回、神社側がこの事を知ったのは今年の3月の産経新聞社の取材によるものでした。記事に関してはすでに3月末に掲載されましたが、この『海道東征』に関しては今年の11月20日に関西におきまして、数年ぶりに演奏されるとの事です。

来年は当社にも所縁の深い神武天皇様が崩御されてより、2600年目となります。この素晴らしい曲を多くの人々に知っていただくためにも、境内に看板を設置することを考えております。

妻垣神社 再び美しい神社へ蘇らせる        神社総代長 溝部定見

菟狭はよ、さす潮の水上、豊国の行宮。
ああはれ足一騰宮とよ、行宮。
足一騰宮は行宮と、青の岩根に一柱坐す。
足一騰宮に参出ると、大わたの亀や川のぼり来る。
足一騰宮の大御饗、誰が献る、はるか雲居に。
足一騰宮は菟狭津彦、朝さもらふ、夕さもらふ。
足一騰宮は湍の上や、足一つ騰り、雲辺に坐す。
ええしや、をしや。ええしや、をしや。

妻垣神社 にぎわう秋季大祭

妻垣神社 にぎわう秋季大祭

恒例の秋季大祭が10月25~26日にかけて斎行されました。おかげさまで天候にも恵まれ、秋晴れの二日間となりました。期間中は恒例となりました地元安心院高校茶道部によるお茶会が今年も開催され、お抹茶とお菓子が参拝者に振る舞われました。会場となった遺族会館はすぐに60人以上を超えるお客さんでいっぱいとなるほどの盛況ぶり。お茶会後は、神社本殿にて献茶式も執り行われ、ご神前にお抹茶が供えられました。

妻垣神社 秋季大祭

また大祭には十ケ平神楽社による御神楽の奉納も行われ、その中で多くのお餅がまかれました。まくお餅は大祭前日に各集落毎で、蒸したもち米に紅・白・黄・緑・紫の五種類の色粉を混ぜてつかれます。このことは、神社仏閣で用いられた五行思想の影響が色濃く残っていることを感じさせます。昨年の秋季大祭も高校生を始め地元の人達の協力により無事終えることができました。ありがとうございました。

大祭の模様は以下動画サイトYOUTUBE (大分市 小野計一様制作) でご覧戴けます。
『浦安の舞』
十ヶ平神楽『乱れ御前①』
十ヶ平神楽『乱れ御前②』